祖父、訃報

昨日は1週間ぶりにお酒を飲んだのでブログを書かず眠ってしまいました。

 

先ほど祖父の訃報がり今日は祖父との思い出について書きたいと思います。享年94歳でした。

 

広島に6人兄弟、農家の長男として生まれたそうです。まだ元気だった頃には「ポツンと一軒家」で紹介されてもおかしくないような山奥の家で米作りをしていて、私もよく手伝いに行ったものです。私の父が小さな頃にはその家で生活していたようですが、ギリギリ電気の通っているような場所だったので、父が20歳くらい?の時にそこから車で30分程度の田舎町に家を買い、田舎町の家からポツンと一軒家へ通う生活をしていました。稲作を山の中でやっている為、猪や猿、鹿など田んぼを荒らす獣は多く、よく一人で泊まり込んで田んぼを守っていました。性格は父と異なり、かなり豪快でしたが社交性のある性格でした。マムシを見つけると先を楔状に切り込んだ竹で突き、捌いて焼酎につけて飲んでいたり、猿を追い払うために大声を発しながらロケット花火を連射したりと、今思い出しても満場一致でbest of wildですが、当時の私も幼いながら尊敬の念を抱いておりました。ポツンと一軒家へ田植えの手伝いに行っていた頃、幼かった私は手伝いを免除されていましたので祖父から鉈や鉋、ナイフの使い方を学び、山から材料を取ってきてコップや竹トンボを作って遊んでいました。小学校で竹トンボを作るという授業があった時、電話で祖父にその事を伝えると封筒で竹トンボを送ってきてくれました。私が作ったものはもちろんクラスで一番出来が良かったと思いますが、祖父が作ってくてた竹トンボが桁違いに飛びびっくりしたのを覚えています。趣味は温泉通いで、よく私と父を行きつけの温泉に連れて行ってくれました。我が家は昔気質なところもあり、温泉にいくと父から祖父の背中を流してこいと言われ、祖父の背中を流していると父の背中を流してこいと言われ、しかし私はそんな時間が少しも嫌ではありませんでした。誰彼構わず話しかける性格だったので行きつけの温泉では受付のお姉さんからレストランのコック、温泉に入っている知らないおじいさんまでみんなが祖父に挨拶をして楽しそうに話していました。昼間から焼酎を飲み(運転は父です)、私も成人した頃には付き合わされましたが、夜は大河を見て9時前には寝てしまっていました。
 私が大学を卒業する頃、認知症が悪化し家が分からなくなり警察から連絡がきたり、物忘れがとてもひどくなりました。車の免許を返納して(本人はとても嫌がりましたが)祖父は温泉には行けなくなりました。ポツンと一軒家での稲作も私が大学の頃には体力的にキツい為断念していましたが、土地の手入れを誰もしなくなった為荒れ放題になってしまい、家を解体し更地にしました。その後、排泄や入浴もままならなくなりデイサービスで日中は介護をしてもらうようになりました。この頃祖父の家に泊まりに行った事がありました。お酒を一緒に飲みたがりましたが祖母が体調を案じ飲ませませんでした。その夜いきなり起きて大声で叫び、家の中を徘徊した後、家の周りをぐるぐる歩いていました。祖母は介護で疲れ切っていて、こんなことは毎日だから呼び戻さなくていい、疲れたら返ってくると言っていました。家に返ってきた祖父はなんで家に入れてくれなかったのだ、と涙ながらに私達を責めました。私はその頃研修医をしていましたが、知識だけでは医療は全く使い物にならない事を痛感しました。その後祖父は施設に入居する事になりました。家から施設まで距離があり、祖母は移動手段がなかった為、山口県の実家から広島まで父が祖母のお見舞いのために毎週通っていました。私はその頃結婚し、その一年後に息子が生まれました。北海道に転勤になり、仕事も忙しく、あれ以来祖父には一度も会っていません。生まれた息子の写真を父が祖父に見せてくれた動画を送ってくれました。もう父のことも分からなくなっており、ほとんど意思疎通も笑うこともできなくなっていた祖父が、息子の写真を見せると満面の笑顔を祖母と父に返していました。最近ではこんな事はないのだと祖母が後から教えてくれました。奇跡だと。
 今日訃報を聞いて息子を抱いた時、こうやって命は繋がるのだと感じました。ワイルドな祖父の血が息子にも流れています。きっと天国でマムシ焼酎を飲みながら私たちを守ってくれている事でしょう。今まで本当にありがとう。どうか安らかにお眠りください。